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- スタート
本日は、岡山後楽園にお越しくださいましてありがとうございます。
それでは、まず、後楽園の歴史について簡単にご説明いたします。
後楽園は、今からおよそ300年前、岡山藩31万5千石の藩主池田綱政公が、家臣津田永忠に命じて作らせた、いわゆる大名庭園の代表的なもので、元禄13年(1700年)に、一応の完成をみました。
後楽園は旭川をはさんで岡山城の対岸に位置し、藩主のやすらぎの場として作られました。時には客をもてなし、またある時は藩内の人々の入園を許し、ともに楽しむ場としても使われました。
江戸時代には、城の後に作られていることから、後の園という意味で、御後園と呼ばれており、明治4年になって「後楽園」と改称されました。
その後、明治17年に池田家から岡山県に譲られ、一般に公開されるようになりました。景観や学術的に価値の高い庭園として、国から「特別名勝」の指定を、さらに歴史的にも価値のある場所として「史跡」の指定を受けています。
また、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とならんで日本三名園のひとつに数えられ、多くの人々に親しまれており、岡山県が世界に誇る大名庭園です。
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- 石橋
①番『石橋』
石橋に立つと目の前が明るく開け、岡山城が雄大な姿をみせます。
後楽園の特徴は、広大な芝生と「曲水」と呼ばれる水の流れに代表され、美しく整えられた建物や池・築山が点在し、それらが水路・園路・植え込みなどで結ばれて、一体感のある調和のとれた明るく開放的な庭園になっています。
園内に広く使われている芝生は、築庭当時はこの辺りだけに敷かれており、残りは田んぼや畑でした。
園内に田畑を広く作ったのは、気ままな外出が許されない藩主の、山や川、田園風景を間近にみたいという気持ちによるものと考えられています。その後、時代を経て芝生の占める面積が増加し、今では平地のほとんどが芝生となっています。
毎年2月の初めに行う『芝焼き』は、後楽園の風物詩となっています。
園内の景色や建物は築庭を指示した藩主池田綱政公の好みで作られ、その後も、時々の藩主の好みによって手が加えられましたが、300年間その姿を大きく変えることなく今日に至っています。庭は、藩主の居間『延養亭』から眺めて楽しむ他、園内を一回りして景色の移り変わりを楽しむという『回遊式庭園』ともなっています。
以上で①番『石橋からの景色』の説明を終わります。
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- 鶴鳴館
②番『鶴鳴館』
この瓦葺きの建物は、昭和20年の戦災で焼失した建物のかわりに、昭和24年、山口県岩国市にあった武家屋敷『吉川邸』を移築したもので、武家屋敷の様子を伝える貴重な建物です。
もとの建物は茅葺きで、江戸時代には賓客の接待などに使われていました。明治時代の初めに一間の大広間に改築され、明治17年に岡山県に譲られたとき『鶴鳴館』と命名されました。当時は今でいう県議会の議場として使われたこともあります。
現在のこの建物は、お茶会や結婚式など、広く一般の方々に利用されています。
以上で、②番『鶴鳴館』の説明を終わります。
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- 延養亭
③番『延養亭』
『延養亭』は、築庭工事の初期に建てられ、藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われていました。園内外の景観が一望できる、後楽園の中心的な建物です。
戦災で焼失した後、昭和35年に、『延養亭』向かって右手の茶室『臨い軒』とともに、築庭当時の絵図を基に復元されました。霧島松、春日杉、吉野杉など第一級の材料と、最高の技術によって復元されたもので、後楽園の最も重要な建物としての風格を漂わせています。
さて、ここから反対側、池や芝生の方向をご覧ください。
後楽園の特徴でもある芝生地や『沢の池』、奥には楓林の『千入の森』が、また右ななめ前には築山の『唯心山』が見えます。
正面遠くの山は『操山』といい、その『操山』までもが後楽園の景色のように見え、庭園をより一層広く感じさせています。このように園外の景色をあたかも庭園の一部のように見せる技法を『借景』といいます。藩主が『延養亭』から最高の景色を眺められるように工夫を凝らしたことがうかがわれます。
また、中秋の名月も操山の上に昇り、『延養亭』付近から眺めると、より美しい光景となります。
後楽園では、旧暦8月15日に夜間開園し、『名月観賞会』を催しています。
『曲水』は、この『延養亭』前から川幅や流れが変化し、右手に見える、丸い火袋を持つ後楽園独特の形をした『茶庭型石灯籠』とともに、現在の後楽園を代表する景色の一つとなっています。
以上で、③番『延養亭』の説明を終わります。
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- 栄唱の間・能舞台・墨流しの間
④番『栄唱の間・能舞台・墨流しの間』
ここからは見えませんが、正面の建物の奥には『能舞台』があります。その『能舞台』を囲むように正面手前に見える茅葺きの建物『栄唱の間』と左側に『墨流しの間』があり、能を鑑賞する場所『見所』となっています。
後楽園に最初に『能舞台』が作られたのは、築庭を命じた、藩主池田綱政公の時代、宝永4年(1707年)です。能に熱心であった綱政公は優れた舞手でもあり、時には藩内の人々に観覧を許し、その回数は7年間で150回を超えました。
『能舞台』とその周辺も戦災で焼失したため、戦後、昭和33年に『能舞台』、昭和42年に『栄唱の間』と『墨流しの間』が江戸時代の遺構をもとに復元されました。
以上で④番『栄唱の間・能舞台・墨流しの間』の説明を終わります。
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- 花葉の池
⑤番『花葉の池』
『栄唱の間』の前にあるこの池は『花葉の池』と呼ばれ、池に架かった木橋を『栄唱橋』といいます。また、左手にある滝は『花葉の滝』といい、『曲水』や『沢の池』から地下に埋めた管を通して水が流れ落ちるようになっています。この仕組みは、江戸時代の中頃に完成し、現在に伝わっているもので、一見、水がどこから流れ出しているのか分からない不思議さがあります。
この池では、6月~8月頃に、大輪の白い花をつけるハス、『一天四海』が見頃となります。毎年7月第一日曜日の早朝には、ハスの開花を見る『観蓮節』が催され、茶席も設けられます。
以上で⑤番『花葉の池』の説明を終わります。
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- 大立石
⑥番『大立石』
これは、『大立石』と呼ばれる高さおよそ7メートル、周囲20メートルの、園内で一番大きな石です。築庭を命じた綱政公の命により運ばれたもので、90数個に割って運び、この場で元の形に組み上げました。『大立石』のそばでみると一層その大きさを感じることができます。
以上で、⑥番『大立石』の説明を終わります。
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- 茂松庵
⑦番『茂松庵』
この建物は、江戸時代には『花葉軒』と呼ばれ、明治時代の初めに『茂松庵』と改称されました。戦災で焼失し、昭和27年に、園内で最初に復元された建物です。
築庭当時、この周囲は榎木の大木や、山桜、楓、松に彩られていましたが、時代とともに変化し、現在のようにいろいろな種類の木々に囲まれるようになり、園内で一番静寂な場所で、奥山里の庵の趣を漂わせています。
以上で、⑦番『茂松庵』の説明を終わります。
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- 二色が岡
⑧番『二色が岡』
花葉の池の南に位置するこの高台一帯は『二色が岡』と呼ばれ、築庭から100年ほどの間は、春は桜、秋は山桜や楓の紅葉、冬は松の緑という木々の変化に彩られた林でした。
この林の趣向を詠んだ江戸時代の和歌が残っています。
「花もみじ 変わるながめの あかざりき だれもにしきの岡というらん」
【春の花、秋のモミジと入れ替わる眺めは、いつみても飽きないものだ。
誰もが、にしきの岡と呼ぶだろう】
戦後は杉木立となり、市内中心部にありながら、野鳥が多く飛来する静かな林となっています。
以上で⑧番『二色が岡』の説明を終わります。
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- 御舟入跡
この竹林に囲まれ深くなっているところは、かつては旭川の入江で、藩主がお城から舟で渡って来るときの船着き場となっていました。中央あたりに、藩主が利用した『御成御門』がありました。
大正時代に外園散歩道を整備する時に、御舟入の入り口は閉じられてしまいましたが、今でも当時の様子をうかがい知ることができます。
以上で、⑨番『御舟入跡』の説明を終わります。
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- 地蔵堂とムクノキ
⑩番『地蔵堂とムクノキ』
地蔵堂は、築庭まもない元禄15年(1702年)に建立され、代々この場所に受け継がれてきました。
毎年6月に行われた祭礼には、園内で働く人々も参詣し、夜遅くまでにぎやかに祭が行われました。
地蔵堂のそばに立つ、幹が空洞化している木はムクノキで、築庭当時の絵図にも描かれていることから、築庭前からこの場所で生き続けている可能性が高いと考えられています。
以上で、⑩番『地蔵堂とムクノキ』の説明を終わります。